さかのぼること30年前、ミナミで育った青春時代
まずは当時のミナミについてお話を聞かせて下さい。
いつ頃からミナミが活動拠点になりましたか?
「子供の頃からミナミで遊んでましたね。このへんでずっと。オヤジがよくミナミで遊んでたんでね。(法善寺の)近くに正弁丹吾亭って、100年以上続いてるお店があるんやけど、そこなんかに良く連れて行ってもらいましたね。もともとオヤジは大阪の人間じゃないんやけど、ネクタイ締めてスーツきて出て行くときは、正弁丹吾亭行くときやった」
20代はどういう若者でしたか?またその街の様子とは?
「めっちゃ生意気やったな〜。僕らの20代の頃はサーファーの連中と、服屋の連中、音楽家なんかが一世風靡してて。3つぐらいのグループがあって、今で言う(DJ)マーキーとか石田長生、憂歌団とか桑名(正博)とかと居酒屋なんかでよく見かけました。まぁそこで喧嘩したりしてね。いまでは法善寺はきれいな街やけど、当時は治安もよくなかったし人も多かったから、棒持って追いかけられた時に逃げ込む場所が法善寺らへんやった。ほんまいま考えたら、こんな場所でよう商売してるわ(笑)」
当時のミナミは活気はありましたか?
「若い奴らはいまと変わらんぐらい騒いでたけどな。まぁサラリーマンは元気やったよ。宗右衛門町なんか、肩当たるぐらい背広着たおっさんばっかりやった。クリスマスなんかの時は、ケーキ三つぐらい持ち歩いてたもんな(笑)。んで昔はようおっさんに奢ってもらったわ。でもいまは学生のほうが金持ってる時代やからな。全然違うのよ、時代が。昔はかっこええおっさんがようさんおった。そういう人ら見て育った」
「法善寺JAZZストリート」へのスタート
はじめてお店をオープンされたのは?
「23んときにやったね。宗右衛門町で。その時はスナックやったんですよ。常連で行ってた店が、「閉めるから、店やれへんか?」言われてね。僕はもともとアパレルというか服屋やりたかったから、ちょっと儲けて洋服屋やろうと思ってたんですよ。でも知らん間にどっぷり浸かってたわ。そっから3年半ぐらい経ってからスナック辞めて、改装して違う店にした。でも当時はJAZZのレコードが26枚しかなかったんよ、僕なんかはね。別にコレクターじゃなかったから。だからオープンする時に、レコードの帯に付いてたジャケット紹介を一枚づつ切り出して、ハガキに貼ってね。「お前、これもってこい」って120人ぐらいに送ったんよ(笑)。それで集まった120枚と、持ってたのと合わせてはじめた。家から嫁はんのプレーヤー持ってきてね。最初はほんま手作りやった」
1989年にお店を宗右衛門町から、法善寺へお店を移転…。そして黒田征太郎さんとの出会いは?
「「JACK sINN」って店からはじまったんやけど。ここのお客さんが黒田征太郎やってる「K2」って会社の人だったのがはじまりでね。当時の映画で『BLACK RAIN』ってあったでしょ?道頓堀での撮影の時、内田裕也さんとか黒田さんとか(松田)優作さんとかがみんな集まってる店があってね。そこでみんなを紹介されたのがきっかけです。黒田さんは飲み屋が好きというか、カウンターバーが好きでね。そっからですね、付き合いは。よう飲みにも行きましたね。一緒に旅したりするようになったり、会社の忘年会に呼んでもろたりね、もう25年以上の付き合いかな。可愛がってもろてます」
音楽との出会い、どんな時も支えてくれた仲間の存在
法善寺祭りへの参加から、「法善寺JAZZストリート」発足に至るまでの経緯を聞かせてください
「法善寺横町の入り口にある「カルバス」ってお店の大将が10代の時から知り合いやって。それがきっかけで、前の店からこの街に移る2年ぐらい前に参加させてもうてね。僕も賑やかなん好きやから。本格的にやり出したのは、店出来てから。当時はもう有名やった石田長生さんがライブやってくれてね。おもろかったな〜。でも何回かやるうちに、色々な理由で存続が難しくなってきた。それやったら自力でやろうってことになったんやけど、そっからも色々あって。やる場所に困った時に、お寺が場所を提供してくれるって話も出たんやけど、それは一度断ったんですよ(現在は境内広場で開催)。当時はストリートの投げ銭なんかで運営してたんやけど、お寺でやることで経営が難しくなるいうのも理由の一つやった。そん時に、黒田さんが猫の絵の原画を100枚を1万円で提供してくれたんですよ。2日間展示して、その原画を売ることによって、運営出来るのが分かった。いまでは大阪の企業から協賛もらったり、個人でも協賛もらったり出来るようになったけど、当時はミュージシャンにカレー1杯食ってもらって終わりとかやったからね」
法善寺の火災など、さまざまな場面を支えてくれた仲間の存在とは?
法善寺の火災など、さまざまな場面を支えてくれた仲間の存在とは?
「30年もやってたら、お客さん以上の付き合いさせてもうてる人もいるんですよ。「なんでもするで〜」言うてくれるしね。この辺りが火事になった時も、ミュージシャン連中がみんな集まってくれたよ。募金活動するためにね。街のために来てくれたよ。観世流能楽師の梅若基徳さんを通じて、重要無形文化財保持者の久田舜一郎さんも来てくれて、鼓してくれてね。「?だ金なんか要らないよ。あるときに払ってくれたらいいんだから」なんて言ってくれて。全部タダよ。その時はそんなもんかと思ってたけど、いま考えたらビックリする(笑)。とんでもないおっさんやな思て。かっこええわ。ほんまロックンローラーやね。いざという時になったら人間の本性出るから。ミュージシャン連中も「なんかできへんことないか?金いるんやろ?チャリティーしようや」って向こうから言ってくれたからね。ほんまありがたいことやったわ」
節目を迎え、これから思うこと。そして更なる展開とは
川名さんにとって音楽とは?またこれからのミナミについて思うこと
「ずっと自分と一緒にきたというか、同じ一線上にあるという自分の生き方なんかな。そこに入ってしまったもんね。服も好きやったけど、それはまた別で出来ることの話やから。音楽は内面にあるもんやから。ほんと(JAZZに)出会った事によって変わったμ芽から。まぁミナミもだいぶ街が変わったやろ?良くも悪くも。でもほんとに音楽好きな人が遊びにいける所が少なくなってきたと思う。
フラっと音が聞こえる所に寄ってみれば、「ええやん」って感じることが出来る場所。そういうようなことしたいなぁ。俺とこ、4月に「JAZZストリート」ってんのやってて。おととしから始めたんやけどね。三軒ある店でライブやるんやけど、一枚のチケットで三軒をウロウロしながら、いろんなライブが楽しめる。神戸JAZZストリートのミニチュア版みたいなのを発信していこうとしてるんやけどね。なんぞそういうことする人おらんかったらつまらんでしょ?そういうこと発信していけたら思ってるんや」
▼特集 30歳から始めるミナミの歩き方 Vol.1 『なんばエリア特集』